暗い木材、温かい光、廊下の曲がり角に突然現れる階段、予告なしに連なっていく部屋。道後温泉本館は、ひとつの場所というよりも、時間をかけて積み重ねられた空間の連なりという印象を与える。


舞台装置となった湯
四国の松山市にある道後温泉は、日本でも最も古い温泉のひとつだ。けれど、人々がここに来るのは入浴するためだけではない。複数の階と灯りを備えた本館の建物は、すぐに宮崎駿の世界を思い起こさせる。スタジオジブリの『千と千尋の神隠し』との重ね合わせはよく語られる。特に夕方、ファサードが灯り、浴衣姿のシルエットが周囲の通りを行き交うときに。

周辺の街並みは、温泉と同じく、生き生きとして、コンパクトで、歩き回りやすい。屋根付きの商店街、次々と並ぶ食事処、カフェ、店、施設から施設へと移動する浴衣姿の客たち。少し高台へ上がりたければ伊佐爾波神社へ。降りてきて食事をし、それから松山城へ向かう。すべてが無理なくつながっている。道後温泉は、本当の意味では決して止まらない場所だ。止まる瞬間が来るまでは。
無人の温泉は、場所の読み方を変える
COVID期、本館は閉鎖された。他の場所と同じく、ここからも人が消えた。誰もが、静まり返った街、人気のない通り、突然凍りついた見慣れた場所のイメージを覚えているだろう。ここでは、その効果はさらに際立つ。私がひとりで中に入ったとき、すべてはあるべき場所にあったけれど、いつものように機能してはいなかった。温泉は、シンプルで共有された一連の所作の上に成り立っている。入って、洗って、浸かって、出る。その存在がなければ、場所は論理を失う。



すぐに、奇妙な感覚が広がる。少しずれた、ほとんど理由もなくここに付け加えられたかのような感覚。温泉は人を迎える準備ができているのに、誰もいない。そして気がつくと、普段なら本当には観察しない空間の中を歩き回っている。沈黙はすべてをより目に見えるものにする。水の音、タイルの上の光、青い色合いの壁画、鳥の模様。シンプルな細部だけれど、それらが普段ではありえない位置を占めるようになる。
湯の中心
本館の「霊の湯」と呼ばれる中心の浴室では、すべてが中央に設置された石の塊の周りに組み立てられている。そこから温泉水が、源泉から直接、湧き出して、浴槽全体に流れていく。湯船が満員のとき、この要素はほとんど気づかれない。そこにあるけれど、動きの中に溶け込んでいる。誰もいない湯では、それが明らかになる。刻まれた文字、時間によって磨かれた石、水が絶えず流れ出る彫刻が見える。装飾的な要素ではなく、湯の出発点であり、すべてがそれを中心に組み立てられている。訪問者がいないと、この構造がはっきりと現れる。空間がどう考えられているか、どう使われているかがよく理解できる。そして何より、それがどれほど共有されるために作られているかが分かる。



禁じられたものを撮影する
日本の温泉では、カメラを取り出すことはしない。この特殊な状況で、私はいくつかの写真を撮ることができた。これは例外的なことであり、皇室専用の浴室など、立ち入りができない空間も残っている。後で写真を見返すと、印象的なのは写っているものよりも、写っていないもののほうだ。何か本質的なものが欠けている。所作、人の気配、普段はこの場所に意味を与えている控えめな出入りの数々。まるで待機中の舞台装置、機能する準備ができているけれど宙吊りになった空間を捉えてしまったかのようだ。誰もが目にした空っぽの街の写真と似ているけれど、ここではスケールがより親密で、ずれもさらに鋭く感じられる。
あなたがいなくても、きちんと機能する場所
それでも、何ひとつ止まっているようには見えない。湯は流れ続け、浴槽は満たされたまま、光は一日の流れに従って変化する。喧騒がなくなると、それぞれの要素がより大きな位置を占めるようになる。石、反射、壁。場所はより読み解きやすくなり、ほとんど読み解きすぎるほどだ。そこで、道後温泉のもう一つの顔、より静かな顔が現れる。


水面に戻る
集団のために設計された温泉でひとりになるという体験は、他の場所では見つけにくい感覚をもたらす。場所をもう同じようには体験しないし、同じようには見もしない。これは特殊で、偶然による経験であり、訪問というよりは文脈に依る。結局のところ、それこそが本当のずれなのかもしれない。これほど人で賑わう、これほど生き生きとした場所が、一瞬の間、誰もいない状態でも機能できる…そしてまさにそこで、いちばん場違いに感じる、と気づくこと。