軍艦島小·中学校は島の歴史的シンボルの一つだ。島の周りをボートツアーでざっと見るだけでも絶対に目につく…. えっ?興味ないって?こんなすごい場所なのに行ってみたいと思わないって?!?じゃあ、かわりに軍艦島のほうを読んでもらえばいいかと思う。それか、一緒に幽霊教師に会いに行こう。
建物は1958年に建てられ、島で最後に建てられた建物の一つとなった。7階建てで、1階から4階は小学校、5階から7階が中学校となっていた。7階には講堂、体育館、その他の多目的室もあった。不気味な虎に変身するピエロに出迎えを受けた。
音楽室
光と魅力的なメロディーで溢れんばかりの部屋からの開始だ。広く開いた窓を風が音を立てて吹き抜ける。風が止むと、こんどは島のコンクリート壁にあたって砕ける波の音が聞こえる沈黙したピアノもその音に耳を傾けているように見えた。
ピアノの後ろに年老いた音楽教師が座り、最後に残った数少ない鍵盤にしがみついているようだった。深い歴史が刻まれているのだ。
職員室
ここには時々教師の幽霊が集い、黒板に残されたサインを眺めたりする。サインは、ここを訪れた快挙を得意に思っている人々が残したもので、皆ここの魅力にワクワクしている(もちろん我々のその中に含まれる)。しかし、人々は、この島が実際には生き地獄の様だったという事実にはあまりふれない。そんな中で、学校だけはこの地獄の様な「都会」の中に存在する静かなオアシスだった。
以前島で学生として生活していた者の中には、好奇心で島を訪れた者もいる。もちろん、皆、今では大人になっていて、校舎内に立ち入ろうとする者はいない。広大な校庭から建物を眺めて、古き良き思い出だけを胸にして立ち去るのだ。
風が吹くと、まだダイヤモンド針がきちんとついたままのビクターのレコードプレーヤが目を覚まし、黒く焼けたレコードを軋ませる。後はまた、教師だけの静寂に戻る。
事務室
この部屋にはとても面白い機械があった。以前、これと同じ機械を見たことがある。ガラスケースに入って展示されていた。
これは40年ほど前の計算用機器なのだ。それぞれすべての桁の番号を同時に押して(桁ごとに列が配置されている)、少し待ってから、今度は使いたい算式を押す、という風にして使うのだ。Friden STW-10というモデルにとても似ている。
この広告には、この機械が、車やナイロンストッキングより、ずっと入手しやすいとうたっている。これは戦時中だったのか?もう一つ面白いことを発見した。このような機械の操作を担当する人のことを、当時は「コンピューター」と呼んでいたのだ。この「コンピューター」の様な機械は、ユーザのために計算をしてくれ、すぐに答えを出してくれる。当時、Fridenは非常に人気があり、1966年ごろまで使用された。しかし、実際には、軍艦島にあるこの機械がFriden社の物であるかどうかはわからない。インターネットでみても、似た様なモデルを見つけることは不可能だった!是非自分で試してみてくれ!コレクターズアイテムであることは確かだ。
端島小中学校で「コンピューター」として仕事するのは快適だったに違いない。生徒数もそれほど多くはないし、なんといってもいつでも、この素晴らしい眺めだ。
算数用教室
それでは算数を勉強しよう。この教室はとても寂しい感じだ。古いそろばん以外は何も無いがらんとした感じだった。
ギリシャ語(ギリシャ語でABAX)のそろばんを直訳すると「埃の表」となる。ここでは、その名前がぴったりはまる。日本では今でも、特に学校では、そろばんが使われているようだ(もっと小さいものだが)。
化学教室
小さな実験用の瓶が床にある以外は何も無かった…石油の化学実験ですべてが終わったのか。
物理教室
それぞれの部屋には、その部屋独自のモノがある。そこに魂が宿っているのか?
教室の床は、黒板の破片で覆われていた。真っ青だった!黒板は、昔はこんなにカラフルだったのか?
裁縫教室
足踏みミシンだ。シンガー製のようだ。日本では、すべての学校でまだ裁縫を教えており、日本人のこのような古い機械への興味はますます高まっている。東京には、裁縫クラスがある特別なカフェもあるくらいだ。
1970年代にはエレベーターが学校に設置され、島で唯一のエレベーターとなった。しかし、それは給食室から食べ物を運ぶためだけに使用された。
英語教室
1970年代には、日本でも校内暴力が起こり始め、道徳観にも低下が見られるようになった。日本の教育システムは完全にアメリカ人学生の影響で変わってしまった。自由さを求め、すべての事に関して自分たちの考えや権利を求めて戦うようになった。しかし、ここ軍艦島では、そんなことは遠い世界の事だった。
ここの幽霊たちは、学校の隅にあるこの美しい部屋で一つの灯火を見たのを思い出す。使えなくなった古い電球の中に、ろうそくをともした。若者がまわりを囲んでいた。湿った風や寒さと戦いながら、若者たちはチョコレートや少々の酒を分かち合い、色々な話をし、最後には眠りについた。
講堂と体育館
無情な台風がこの建物に甚大な損傷を与えたので、今では基盤が剥き出しなってしまっている。この学校は、実際には島の人工的に作られた部分に建っている。実際の端島は中央の山の部分だけで、それ以外はすべてコンクリートで出来ている。したがって、潮の干満によって、学校の地下は水でいっぱいになることもある…
最後の階段はひどく破損していた。しかし、この素晴らしい講堂と体育館は今でも十分に楽しめる。
別れ
この学校は1974年3月31日に遂に閉校となった。なぜか、写真の一枚には1973とうつっているが、実際の年ではなく学年度を表しているのかもしれない。Source: Yuji Saiga.
最後には学生数は少数になってしまっていた。軍艦島の歴史詳細については、私の最初の軍艦島記事をご覧いただきたい。
一日も終わりに近づいている。窓際を歩こうとする幽霊もいれば、ステージの上で踊っている幽霊もいる。かびっぽい床におちる水滴の音が響く。夜になってゾンビが出てくる闇が迫る前に、最後の太陽の光が射し込む。
これからも、軍艦島に関する発見を続けて行く予定だ。次の記事が出来るまでは、 軍艦島を読んで、何も見逃す事の無いようにして欲しいと思う。
軍艦島についてもっと知りたい方は、是非私たちの他の記事軍艦島探求を読んでもらいたい。(^_^) 来てくれてありがとう!
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