Exploring Gunkanjima: Abandoned City in Nagasaki - urban decay and haunting atmosphere.
Explore the haunting ruins of Gunkanjima, an abandoned city in Nagasaki.

軍艦島:坂本道徳氏の思い出

これから紹介するのは軍艦島の住人であった坂本道徳の素晴らしい思い出への旅です。

坂本道徳は軍艦島の公式ガイドであり、ユネスコに無人島を認知してもらう活動を行う協会の会長でもあります。特筆すべきは坂本道徳は軍艦島に住んだことがあり、たくさんの思い出があるということです。「夜」、「長崎」など私が挙げたキーワードに対してひとつ、ひとつ思い出を語ってくれたのはとても興味深いものがありました。これから紹介するのは軍艦島の住人であった坂本道徳の素晴らしい思い出への旅です。

Gunkanjima: Wood & Concrete

部屋

坂本道徳: 一部の職員住宅を除いて、鉱員が大部分を占めたこの島の住人の部屋は、ほとんどが二間の八畳と六畳か、もしくは六畳と四畳半の狭い居住空間であったが、それほど狭いとは感じなかった。現在の生活では親子五人では窮屈と思うかもしれないが、その当時は、与えられた空間でいかに効率よく生活できるか、いかに快適に過ごせるかを考えて住んでいた。同じ間取りでありながら、調度品などでがらりと部屋が違って見えたり、ベランダに一部屋造ったりと、住むためのあらゆる工夫がされていた。空中廊下は、この島の狭い生活空間全体を効率よく快適にと、人々が考え工夫したものであると思うのである。いまでもこの島に住んだ人たちの多くは、住みやすかった、みんな仲が良かったと言う。それは狭い空間で人と人が快適に生きるために、いさかいや揉めごとを最小限にくいとめる努力をしてきたからではないだろうか。狭かったからこそ、そういった生活の知恵が自然に出来上がったのだろう。こういったことを考えると、人と人とのコミュニケーションが密であったと同時に、建物同士にも優れたコミュニケーションがあったと理解できるのである。

Scary Hashima Apartments
Rainy Hashima Apartments

トイレ

坂本道徳: 私が六五号棟に移る前にいた一六号棟、一七号棟などの日給アパートにも内トイレはなく、みんな共同トイレだった。

昼間でも裸電球を灯けるほどの暗さなので、夜はトイレまで足を運ぶのに少なからず恐怖感があったのを思い出す。だから部屋を移るときには、できるだけトイレに近い部屋になるようにと祈っていた。

むかしは部屋を移る(引つ越し)ことは点数制で(砿員や職員の勤務状況や、家族の人数などによって点数が配分され、点数によってランク付けされていたが、昭和四一年前後に廃止されている)決められ、簡単にはできなかったようだが、私たちが過ごした時代は比較的簡単に、部屋さえ空けば引っ越しできたようだ。都合八年間で三回の引っ越しを重ねて、最後はこの六五号棟で閉山を迎えたのだが、最後までトイレ付の部屋に住むことはなかった。いま思えば笑ってしまうのだが、ゆっくりと自分の家のトイレを使うのが夢だった。

Gunkanjima Public Bath
Wind & Sea

屋上

坂本道徳: この島の建物の屋上は、島のコミュニティを語るうえで大きなウエイトを占めている。
一般的な屋上にはない、さまざまな使われ方をしていた。

当時の屋上には、端にテレビアンテナが一メートルおきに競い合うように並ぶアンテナの林を形成していた。
私たちの時代にはベンチもありブランコもあった。

夏の夕方になれば、一人、二人と知らないうちに人が集まってくる。
ここでギター片手に歌う者、小学生もいれば中学生も、そして近所のおじさん、おばさんも、いろんな意味での溜り場であった。

屋上に行けば誰かが居る……そんな感覚で、狭い部屋にいるよりは、この場所がいちばん開放感があって楽しかった。

Gunkanjima Apartments Roof
Hashima Roofs
Gunkanjima Sunset Blocks

先生

坂本道徳: そのなかで思い出にのこる先生は技術工作の永川先生で、あだ名で「亀ちゃん」と呼ばれていた。当時もう五十代であったとは思うのだが、この先生の授業には笑いが絶えなかった。それほど最初から最後まで笑わせてくれる先生だった。授業が始まってしばらくすると、どこからかくすくすと笑いが出てくる。いつも授業の前にトイレに行くのか、ズボンの「社会の窓」が開いている。これがたまにではないのである。それを誰が先生に伝えるのか、こそこそ話がしばらくは続くのであるが、突然先生が気づいて慌ててチャックを閉めだすと教室中大爆笑になるのだ。その先生の照れ笑いが、なんともいえず可愛かった。永川先生は技術工作だけでなく就職の担当もしていて、中学を卒業し集団就職で都会へ行く生徒の相談に親身になってくれた人でもある。まだその当時は、中学を出て働かなければならない生徒もいたのである。また生活指導の平川先生は「べちゃ」と呼ばれていた。とにかく厳しい先生であった。何度となくビンタを食らったものだ。遅刻や、中学生らしからぬ態度などすれば、即ビンタが飛んできた。今でも怖い先生だが、そのおかげで曲がったこともせずに生きてこられたのだと思う。国語の汐碇先生は「汐さん」と呼ばれ、人生の情緒的なことなど教わった。とくに恋愛問題について夜遅くまで相談に乗ってくれた。ほかにも一人ひとりの先生の特徴やお世話になったことが三〇年以上たっても鮮明に思い出されるのは、この島での先生との関係がいかに密であったかを物語るものである。それは私だけではなくここで育った生徒たちみんなに言えることではないだろうか。叱られた先生ほど記憶に残り、その先生がいちばん懐かしいものだ。今でも職員室の黒板にのこる先生の名前を見ると、懐かしさで胸がいっぱいになるのである。

Light in Hashima Streets

風呂

坂本道徳: 風呂上りには野母商店という店で、かならず冷たいジュースを飲むのが最上の楽しみであった。いつも小遣いを持っているわけではないので、先輩たちの後ろにくっついていく。そうすると意外にもおごってくれるのである。この野母商店に「野母のかよちゃん」とみんなに呼ばれる女性がいた。端島の島民で知らぬ人はいないくらい親しまれていた女性である。いつもニコニコと笑顔で私たちを迎えてくれた。風呂上りに、気がついたら湯冷めするくらいに長い時間立ち寄っていた場所である。いまでもお元気で、電動の車椅子に乗った姿を長崎のあちらこちらで見かける。年齢不詳のため私たちにとってはいつまでも「野母のかよちゃん」なのである。

Hashima Shop
Hashima Nursery

長崎

坂本道徳: 日曜日には多くの人が長崎へ出て行く。中学生までは保護者同伴で、かならず学校から証明書をもらわなければ端島から出られない。そんな手続きは面倒だったが、やはり島にないさまざまな刺激を味わったり、本や衣服などを買いに長崎へ行くのが休日の楽しみであった。証明書を持っていれば、会社の補助で乗船券も一般の人より安い金額で購入できた。筑豊から端島に来た当時は、船酔いに悩まされ、船に乗るのが嫌な時期もあったが、二~三カ月すると慣れてしまって、ほとんど船酔いもしなくなった。それよりも島にない何かを求めて長崎へ行く魅力が、船酔いなどしていられないほど大きかったのかもしれない。
長崎港には今でも大波止ターミナルという船の発着場がある。ここが長崎市への玄関口であった。長崎市内の「浜の町」がメインストリートで、ここのアーケードが私たちを満足させてくれたところである。いまでも変わらない賑わいであるが、やはり三〇年という時の流れは、町のところどころにしか建物や店の面影を残さず寂しい気がする。島には生活するに十分な施設があったとしても、それは最低限のものでしかなかった。長崎の町でさまざまな刺激を受けながら、また島へと帰っていくのである。それが休日の楽しみであったことは誰しも同じであったろう。車や電車で簡単にいける場所ではなかったから、余計に多くの夢を長崎に求めたのだろう。今でも大波止に来ると、あの頃を思い出すのである。

Hashima Block 30

冬 ― 静かに波をながめて

坂本道徳: 二月くらいまでは北風が強く、ただ荒れ狂う海を見ながらすごす毎日。この季節は船の欠航も多く、静かな島であった。市場の行商のおばさんたちも対岸の高浜から渡って来れない。欠航すれば生鮮食料品も少なくなってくる。冬の海の厳しさである。そんな中で一度だけ雪が積もった。中学一年のことだろうか、記憶は曖昧であるが、校庭で雪だるまをつくった記憶がある。海のそばには雪は積もらないといわれていたが、このときはかなりの寒波が襲来したのであろう。私が島で雪を見たのは、このときが最初で最後であった。厳しい冬のひと時の安らぎであった。

緑なき島

坂本道徳: 一時期、「緑なき島」とメディアでは言われたが、これは外部の人たちの端島への見方がそう思わせたのだと思う。むしろ緑の多い島であったような気がする。外部から端島を「緑なき島」と表現するのは簡単だろうが、島の内部では、島おこし、町づくりが多くの島民の知恵でなされていた。

Hashima Blocks 16 to 19
Beautiful Gunkanjima
Abandoned and Covered with Vines

坂本道徳: 不夜城と呼ぶのがふさわしいくらいに、夜の島からは灯が消えることはなかった。二四時間操業だから炭鉱施設は休むこともなく働き続ける。そこに働く人と送り出す家の灯があった。派手さはないが裸電球は温もりのある灯である。一番方の酒席が最高潮になるころ、二番方の帰ってきた家の灯が賑やかになってくる。三番方を送り出す灯の頃に一番方が眠りに入る。そして二番方の家の灯が消える頃に、一番方を送り出す灯がともりはじめるのだ。絶え間なく灯はついていく。この一つひとつに家庭があり家族がいるのだった。島から出かけて夜に帰ってくると、島のあちらこちらから漏れる灯に、ほっとするような安心感があって、船が桟橋に近づくにつれて、こんどは人々の声が漏れ聞こえてくるような気がしていた。

Wooden Hashima Apartments
Hashima Balconies on Fire

廃墟

坂本道徳: いま廃墟の主役として、この軍艦島(端島)が出てくる。廃墟ブームというものがあるのか無いのかわからないが、「廃墟」という言葉には抵抗がある。昨今マスコミで取り上げられることの多いこの島のキャッチフレーズは「廃墟の島」、「墓標」……暗いイメージの言葉が大半を占めている。しかしそこに暮らしていた人間にとって、いくら崩壊寸前であろうとも、やはりそこは紛れもない「故郷」なのである。それを軍艦島イコール「廃墟」では悲しすぎる。たしかにそのようなことでこの島がクローズアップされることになったが、自分が住んでいた場所(故郷)が廃墟と呼ばれたら、端島にかぎらず、誰しも不快感を持つに違いない。島が無人になって三〇年の間に、心無い人たちによる落書きや破損に、この島は嘆いている。台風などで自然崩壊していくのはしかたないにしても、人間による破壊は断じて許しがたい。

Hashima Rain
Block 30 with Rain

軍艦島が有名になったことについてどう思いますか?

坂本道徳: 正直な気持ちは大変うれしいです。しかしその反面ただの廃墟として観光資源になるのは元島民にとっては悲しいことです。しっかりと軍艦島(端島)の存在意義を考えて欲しいものです。

Gunkanjima TV

軍艦島今危険な状態ですか?島の建物古いので、倒壊の可能性高いですか?そして、そのまま島を何時かなくなると思いますか?

坂本道徳: 建物の崩壊も日々進んでいますが岸壁の崩壊はそれ以上に進んでいます。島を守るための護岸が壊れればすべての建物も壊れます。早く護岸の修復をしていかなければ大きな台風が来れば一瞬に島は無くなるかもしれません。

Sewing Hashima

もし軍艦島UNESCO世界遺産に登録されたら、何を起こると思いますか?

坂本道徳: 多くの観光客が訪れるでしょうがその準備ができていません。日本人だけで無く多くの海外の方も訪れるでしょう。それに対応できる準備が不足しています。また安全面や護岸の修復、そして外国語を話せるガイドも必要になります。ただ長崎市は積極的に島を保護することは無いかもしれません。

Hashima on Fire

世界へ、外国の旅行者、廃墟マニア、記者等へ伝えたいメッセージがありますか?

坂本道徳: 廃墟にカメラを向ける前に何故ここにこういう島があるのかの歴史背景をきちんと知って欲しい。廃墟は人間のエゴが作り出したもの。決して美しいものではない。そこで生活をした人の思い、仕事をした人たちの思いも重ねて写真を撮って欲しい。興味半分で訪れて欲しくない。元島民たちは今でもここを「ふるさと」だと思っている。島民たちにとってはここは「軍艦島」ではなくいつまでも「端島」であるのだから。未来へ向けて資源、環境、平和の問題をこの島からのメッセージで感じて欲しい。人類は自然に生かされていることも。この軍艦島(端島)は未来からの我々人類に向けた警告のメッセージを発しているのかもしれない。

軍艦島についてもっと知りたい方は、是非私たちの他の記事軍艦島探求を読んでもらいたい。(^_^) 来てくれてありがとう!

そして、日本に関するすばらしいコンテンツをもっと見るには、Jordy Meow をインスタグラムでフォローしてください! 🎵

commentaires

はじめまして

Jordy Meow

私は日本在住のフランスの写真家のJordy Meowと申します。私は日本に来たり日本に滞在する外国人のために、風変わりであまり有名でない場所の情報を見つけたりシェアしたいと思っています。私は書籍を出版したこともございますし、現在は綺麗なガイドブックのシリーズを新たに準備しているところです。