横浜の根岸競馬場に帰って来た。もし前編の 超カラフルな競馬場廃墟ツアー をまだ読んでなければ是非先にそちらを読んでいただきたい。今回はもう少し落ち着いて、自然の色でこの物語を語りたいと思う。
1866年 。当時、このあたりは横浜の中心にも関わらず、まだほとんど住宅地だった。明治天皇 が競馬場を建設することを決定した。その開発をまかされたのが建築家JHモーガンだった。明治天皇はこの競馬場を何度も訪れ、さらに後を継いだ昭和天皇はより足繁く通った。
1923年。この年に関東大震災が東京と横浜を襲った。根岸競馬場の建物はほとんど損傷を受けなかったが、木製の観客席部分が火事で焼けた。その時に改装された以外は、その後は何も行われていない。
1942年。根岸競馬場に第二の転機が訪れる。今度は地震ではなく第二次世界大戦だった。競馬は禁止となり、日本帝国軍部はこの建物を印刷所として使った(偽札の印刷も行われた)。馬小屋部分はオーストラリア人捕虜の収容所となり、日本が降伏するまで続いた。
1945年 。日本が占領下にあった時、マッカーサー元帥が、中にあった印刷機を見つけた。マッカーサーはこれを使って14万枚の降伏状を印刷し、日本全国に配布した。根岸は当時のインターネットだったのだ!
1947年。 米軍は、ここの施設全体を接収して、住宅地を建設し、根岸競馬場は、管理事務所として使用された。もちろん、写真教室も行われていた(前編を読んでもらえれば分かる)。このあたりは「根岸ハイツ」になる前には、一時期「エリアX」と呼ばれていた。Yohidevilsのサイトには古い写真も掲載されている 。
1983年。 「根岸ハイツ」の場所が遂に日本に返還される。建物の一階部分は、中がすっかり取り払われて放棄される以前は、ボーリング場として使用されていた。正面の開けたあたりは公共の公園となり、建物の後ろ側は横須賀 海軍基地に属する。根岸競馬場は、この地で変わること無く長い間残っていくことになるのだろう。建物に少しずつ草が生え出しているのを除けば、、、そして、時々いたずら者が有刺鉄線フェンスを台無しにする以外は、、、
根岸競馬場の唯一の謎として残っているのは、軍隊に関する過去と、地下のことだ。マイケル·ジョン·グリストのウェブサイトに書かれていた ブライアンからのコメントによると、地下は通路が迷路のようになっており、その一本が、ある大きな部屋へとつながっていて、その部屋にはしっかりと閉じられた巨大な金属製の扉が二枚あり、地下へ興味本位で入って来た者を寄せつけないのだという。他の通路では、ブライアンは軍関係の物品を多数発見したという。とはいえ、この話も既に数十年前のことだ。
もちろん、前出のマイケルは冒険に出かけ、いろいろな通路を探ってみたが、どれも袋小路で終わってしまった。自分で確認しようとは思わなかった(マイケルほどの勇気はない)。しかし、読者の中で、ここへ冒険に出かける方がいれば、試してみるのもいいかもしれない。入り口の場所を教えてもいい。競馬場からあまり離れていない。
地下室は確かに面白そうだが、屋上はどうなんだろう?三つの塔全ての最上階までは行ったのだが、外へ出るにはいつも太い鎖と南京錠でブロックされていた。同行の忍者もどきの友人は隠れた才能も持っていた:鍵屋も出来る!一時間ほど、錠と格闘の末、ついに勝った。ガッチャン!ハッチのドアが開いた!遂にデッキに出られる!しかし、白昼に外に出れば、警察に即刻見つけられることは間違いない。
根岸競馬場での長い朝となった。いくら建物が大きいとは言っても、10時間以上も写真を撮るほどではない。時間が止まり、退屈さを感じ始める。徐々に寒さが染み入ってくる。太陽の光が入ってくる窓の近くにいるようにしても、役に立たない。この建物のどこかにもっと暖かい場所があると想像して、気力を使ってもっと暖かくならないものかと試したりした、、、時計にばかり目がいく、、、時間が本当に止まってしまった!いったい、いつになったらここから出られるんだろう?外で動き回っている人たちの声が常に聞こえている。今夜ここを出る時のことを考えると本当に怖くなり始めた、、、
私が過ごした、この長ーい時間を写真とシネマグラフ で感じてもらえるだろうか。
羽が一枚だけ残ったファン
待機中、、、
細かいものが集中していた、、、
幽霊を見れるかもという希望を抱いて、、、
18時30分頃、やっと日が見えなくなり始めた。遂に屋上に出て、夜景を楽しんでからうちに帰れる。楽しみだ!7階を通って、8階に行くぞ、、
「危険高圧」と書かれたドアは直接軍基地へとつながる、、、
、、、着いたぞ。エレベータのモータ、奇妙な空の瓶、そして、、、まんじ(卍)を除いては、途中で見る物は特になかった。なんでまんじがあるんだ?宗教的なまんじのわけは無いし、ファシストのカギ十字でもない。第二次大戦中に、日本がこの建物を使っていた頃の物なのだろうか?
はしごを上っていく、、、
遂に、根岸競馬場の屋上に到着!待った甲斐があった!周りの人も少なくなっているし、基地はほとんど眠っているようだった。時間の経過とともに、徐々に気分も楽になり、周りをもっと自由に見渡せるようになって来た。犬の散歩や、ジョギングをする人は絶え間なくどこかにいる。その人たちの合間をみはからって、脱出しなければならない。まだ、出て行くには十分に安全とはいえなかったので、眺めを楽しむことにした、、、かなり長い間。
横浜のランドマークタワーとその周辺の素晴らしい景色を望む。素晴らしい!是非、ランドマークタワーへ行って、反対方向からの写真を撮りたい。多分、後で。
もう行かなければならない。忍者は、きちんと南京錠をかけて、全てのドアを閉めて、誰もここにはこなかったかのように、すべてをきちんと片付けた。奇妙な一日だった。今、我々は建物の外の、入り口近くの穴に潜んでいる。あのフェンスの向こう側には、本当の生活があるのだ。外に出たいと願いながらも、色々考えていた。
私が最初に行くことにした。監視カメラがあるので、ゆっくりと動いて、有刺鉄線に近づく、、、ああ、これは手強い!上に登ろうとするが、有刺鉄線に近づくだけだ。触れれば、あっというまに傷を負うのは目に見えている。切り傷を負わないように、ワイヤーを飛んでつかもうとする。フェンスの上に届くようにゆっくりと登る。有刺鉄線とフェンスの間にすこし隙間があり、有刺鉄線を飛び越えるために身体をささえるにはその隙間を使うしか無い。慎重に試したのに、いきなり切れた!クソ、手を切ってしまった!チクショー!こんなの不可能だ!そのうえこんなバッグまで背負って出来るわけが無い。頭に血が上り、ものすごい速さで心臓が打っている。その上、フェンスの向こう側の、私の真っ正面で、こっちを見てる 困惑顔のばあさんがいる。きっと、傷ついた獣のように目に映ったに違いない。私もそこに突っ立ってばあさんを数秒見つめた。なんとかして欲しかった。ここから出してくれ!でも、ばあさんに何が出来るというのだ?
ばあさんは怯えている。大急ぎで歩き去ってしまった。どうか、交番に通報しませんように。とにかく急がなくてはならない!即座にためらうことなく、バッグをフェンスの上に降り投げて、直感にまかせて有刺鉄線を大急ぎで登り始める。「正しい」方法で行うことなど考えている余裕は無い。ジーンズもジャケットも有刺鉄線にひっかかって、破けたダウンジャケットから出た羽が舞っている、、、片足もひっかかって、もう片足は大丈夫だったが、、、いったい俺は何をしているんだ?!?獣みたいにつり下げられるのか?!?ひっかかっているのを無理矢理引っ張ったので、ジーンズは完全に裂けてしまった。手で頭をかばいながら、頭から地面に落ちた。ブラボー!なんてハッピーエンドなんだ!手、腕、脚は全部血と羽 毛にまみれ、ジーンズは裂けまくっていた。
全てのバックを見張っていた忍者を助けなくては。フェンスの向こうからバッグを投げてくるのを、怪我した手で受け止めなくてはならなかった。そのあと、忍者は簡単そうに登り始め、何の怪我も無く成し遂げた、、、すごい。先に奴を行かせて、はしごを持ってこさせれば良かった。
我々は車に戻り、地元の薬局に直行した。薬剤師に手を見せて、殺菌をしたいと説明した。腕や足までは見せないでおいた。驚いた薬剤師に聞かれた。「いったい何をしていたんですか?」「車の修理をしていたんです!」と言っておいた。破けたジーンズの半分ほどを引きずりながら店を出た、、、薬剤師はまだびっくりしたまま見つめていた。とにかくやったぞ!また訪問したいか?もちろんだ!明日、破傷風の予防接種をまた受けに行くぞ。根岸さん、サヨナラ。
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