僕は常に日本の廃校に目がない。廃れていく田舎において美しく崩れていく様だけでなく、むしろ日本人の魂のゆりかごのようだからだ。
これらの木製の学校の殆どは第二次世界大戦以前のもので中には明治時代に建てたれたものもある。現在、そのローカル色の残るこれらの小さな学校の多くは、村における若者がいなくなってしまって以来閉校されてしまった。日本にはおそらくこういった学校が沢山あって多かれ少なかれそれが例え大きい学校でも廃校になってしまっている。
これらの小規模な学校の機能は現在の日本社会をよく反映している、それ故これらの写真をもっと興味深いものにするために、日本の教育システムを僕の観点から(フランス人のものの見方から)紹介するね。そのことが少しでも写真に生活感を与えてくれることを祈るよ。
日本の学校
学生達は学校まで歩いて来るか、あるいは母親が連れて来ていた。日本には学生専用のバスがないんだ!自転車通学はとっても稀で、都会では禁止されている、でも田舎だったらそれが認められているところもないことはない。くわえたばこで奔放に原付きに乗って中学校に通うフランスとはまるで大違いだ!
学生達はみんな似たような学生かばんを持ち、時々家族からのお下がりなんかもある。でもちょっと待って、もし両親が子供達を学校に連れてくるなら彼らは学生かばんなんて持ってくる必要ないよね・・・先生に叱られたりするのか!日本では学生は自分達のことは自分達でやらなきゃいけないんだ。中国では、正反対。つまり両親が彼らの子供たちのために全部やるんだ。
小学校の初日はクラスでのマナーそして態度が完全にキリリと引き締まる。生徒達はデスクの上に教科書や筆記用具が配られ、起立して着席し、先生の言うことにメモを取ったりあるいはまた質問したりする。授業はそれらの全ての規則が生徒達に理解されないと始まらないんだよ。
ひとつの授業は50分間で次の授業が始まるまでに10分の休憩がある。この休憩時間は本当の意味での休息時間で生徒達が教室を変わるためのものではない。生徒が沢山いる場合は、先生が教室を移動するんだ。でも(およそ1時間ある)昼休みを除いてはフランスのように長い休憩時間はない。
学校の前にはたいてい、江戸時代の哲学者・経済学者だった二宮 尊徳の銅像がある。彼は学生ではなかったけれど、常に勉強を怠らなかったことで知られている。
この像には小説の一文が記されてる。《彼はを薪を探しに山へ早朝に登っていた、鶏がコケコッコーと鳴く前に!》彼は幼い弟と母を養うために毎日勉学もしたし仕事もした。そのため、彼は日本の小田原の二宮尊徳
大先生になったんだ。すごいね。
教室は2年間、40人の生徒達が強く結束して共に勉強する。クラスは組と呼ばれ、おおよそ40人からなっていてその中でもグループができる。ひとクラスには学級委員長がいて、グループでも同じようにリーダーがいる。つまりそれらは投票をすることなく生徒の意見を取り入れながら)先生によって選ばれ、クラスの中での位置づけが決まる。フランスのようにクラスの根底にある争いごとはないんだ;)
僕が子供だった頃、勉強机は木でできていて2人用だった、そしてその机は傾いていた。それらは空けることができて中に教科書をしまうことができたんだ、でもそれらは多くのクラスでほとんど使われることはなかった。日本ではこういった類の勉強机を見たことがない、たぶん他のところであるのかもしれないけど。
殆どの生徒が授業中とても静かにしている。それは先生がある質問をするために論議を中断したときですら、誰も答えないんだ。実際は本当に賑やかさとは異なるんだ!高校でスカートの丈を短くした時以外はね・・・
先生は休憩なしの50分間の授業を終えて帰る。もし生徒が授業の内容を理解しなかった場合、特別授業に参加することもできる。それは有料でとても実用的な授業を行うんだ(記憶-概念の反芻)。それは塾と呼ばれている。
廃校は古き良き慣習をそのまま受け継いだかのように信じがたいくらい綺麗だ。日本では、学校は生徒達によって完璧に清掃される。それじゃあ、彼らはまた戻ってくるんだろうか?
学校は。施設の内部の状態とメンテナンスだけでなく、外も同様に保護されている。かなり規則的に村とその周辺によって管理人の見回りがなされているに違いない。
また、先生達は生徒達の家族を訪問するんだ、それは視察の為だけではなく学校の規則をちゃんと守っているかなど子供達の生活態度を警告するためにもね。
お昼ごはんは教室で取る。もし学校が大きかったら、準備のための調理場もあるだろう。そうでなければ、生徒達はおのおののお弁当を持ってこなければならない。
先生は生徒の頭の先から足の先まで検査する、女子生徒には爪の長さや化粧に至るまで。しかしながら衛生的に逆説も存在する。すなわち、体育の授業のあと、小学校の生徒達はシャワーを浴びず、時には同じ服装のままだったりする。
これまで見てきたように、日本の個人主義教育はほとんど存在しておらず、音楽、詩あるいはゴルフのようなスポーツといった日本の典型的な余暇を奨励しているだけだ。
日本語でよく言われる・・・
出る釘は打たれる。
それじゃあ、自分をしっかりもってね。さもなければ気晴らしをしているときの自分の顔をよく見てごらんよ!
本来の翻訳では“突き破る”は使わないな、“打ち破る”だ、でも僕的には言葉を連想してほしいな。実を言うと、出る杭はハンマーでの一撃というよりは文学的に皮肉を持って翻訳されてるんだ(よく背徳的に使われる)。
日本の中の北朝鮮
信じがたいことなんだけど、本当なんだよ、日本に北朝鮮学校ってのがあるんだ。この支部は現在の2つあって既に廃校になっているんだけれど、まだ多くの活動がなされていて東京のど真ん中に北朝鮮の大学だってあるんだ。でも彼らは日本で何をしているってんだ!?
答えはいたって簡単だ。日本は第二次世界大戦の前は40年に渡って朝鮮を占拠していて、多くの韓国人(日本国民のように見なされていた)が日本に引越しをしたんだ。日本が降伏してから韓国人は元の国民性を取り戻し、韓国が2つの国に分かれる以前に韓国の王朝として存在していた李氏朝鮮の外国居留者と呼ばれるようになった。
1905年、日本は正当化された政府として韓国と和解し、韓国人になることを李氏朝鮮の外国居留者に提案した。なりたくない者は自動的に・・・北朝鮮人になって、李氏朝鮮はもはや存在しなくなった。
これらの北朝鮮人はアメリカナイズされた韓国と違って自分達固有の学校を建設した。それらの学校は公的には在日本朝鮮人総聯合会在日本朝鮮人総聯合会(ビジネスで一番重要なパチンコ業界を含む日本での北朝鮮人会)を通じた北朝鮮の規定で運営されている。その代償として、これらの学校は北朝鮮のマニュアルを使用することを義務付けられており2人のキムという国のアイコンを壁に貼り付けた。もちろん今の新しいリーダーのはないよ、だって彼、おっきすぎてフレームに納まりきらないから。
日本の北朝鮮学校には1万人の生徒がまだいるんだよ。
結論
昨年の六月、僕は三重県の廃校を見つけた。そこは海沿いにあり、小さいけれどかわいらしい港がある場所でね、ポニョのシーンを思い起こさせるんだ。僕の友人等は学校の奥や屋根裏まで訪問してたけど僕はというとちょっとウトウトしながらね、校庭で待っていたんだ。
その時僕は階段を上っている老人に気づいて学校内を探索している友人達のことを心配した。怒られるか?
ううん、実はそんなこと全然なくてね、彼は喜んでいたんだ。友人達が学校から出ると、僕等は彼と一緒にベンチに座ってね、彼は自分の人生についてを僕達に語ってくれたんだ。彼は60年前に彼自身がこの学校の生徒だった。学校が閉鎖されてから現在30年の年月が過ぎたけれど、掃除のために殆ど毎日ここに来ているんだって。彼にとってはとっても簡単なこと、だって歩いて5分のここからすぐ近くのところに住んでいるんだから。そして僕等が車に向かっているとき、彼の奥さんが声を掛けたてきた。私たちと一緒にごはん食べない?おやおや、とても優しいこの地元の2人はこの学校のことを語りたいに違いない:) でも僕等は誘いを丁重に断って新しい冒険を求めて出発した。僕はずっとお腹が空いてたけれど、心は満腹だった。
この前に書いた日本の廃病院とか日本の小さな廃クリニックと同じくらいこの記事を楽しんでくれたかな。まだ読んでなかったら是非!:) この記事に類似していることや間違いっていることがあるだろうけれど、日本のパパやママのコメントを頂けたら嬉しいね。
まぁ、もし君たちがここで紹介したようないい感じの学校を訪れたかったら茨城県にある神岡小学校がおススメだよ。(その記事に地図もついてるよ。)
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