Dorogawa Onsen

洞川温泉、山は見守る

巡礼者の宿、黒い川、アスファルトの上に連なる提灯、そして僧侶の眠気を覚ましたと言われるほど苦い薬。大峰山の麓で、洞川は体を癒し、残りはすべて山が引き受けています。

帰りを待つ通り

奈良の南、紀伊半島の山々のあいだで道は細くなります。登り、曲がり、渓流に沿って進み、やがて標高800メートルを超えたところで、木造の宿が並ぶ一本の通りに出ます。ここの空気は平野より5度ほど涼しく、関西が蒸し暑さにあえぐ夏も、洞川は静かに呼吸しています。夕方になると、宿の顔が一軒ずつ灯りをともします。提灯の列が車道の上に浮かび、看板が黒い木肌に映り、川は赤い橋の下を流れていきます。大きなホテルもコンクリートの塔もありません。旅館と薬屋と数軒の店、そして視界を閉じる山だけです。

洞川は温泉の湧く場所に生まれた集落ではありません。もっと高い場所へ向かう人々を待ちながら育った村です。およそ1300年ものあいだ、ここは大峰山の行者たちの前線基地でした。土地の伝承では、修験道の開祖・役行者に諭された鬼、後鬼の子孫の村とさえ言われています。先祖が鬼の弟子。洞川は最初から、ただの温泉地ではないのです。

縁側に並ぶ百足の草鞋

修験道は山岳信仰と仏教、神道の伝統が溶け合った独特の行の道です。行者である山伏たちは、自然を眺めるより、自然に挑むことを選びます。何時間も歩き、断食し、瞑想し、岩を登り、凍るような滝に打たれる。江戸時代からは「講」と呼ばれる巡礼の集まりが全国に生まれ、先達に導かれた一行がこぞって洞川に集い、山上ヶ岳を目指しました。何世代も同じ講が通い続ける、なじみの宿を持つところも少なくありません。

建築もそれに合わせて進化しました。通りに開かれた長い縁側は、ご近所を眺めるためだけのものではありません。数十人の男たちが列を崩さず、ほぼ同時に上がり込むための入口でした。中では広い座敷が、食事と祈りと、疲れ切った体を受け止めていたのです。

山が開く5月3日から9月23日の戸開き期間には、今も法螺貝の音が家々のあいだに響きます。白装束の姿が錫杖を手に通りを横切っていく。そのあとは風呂、夕食、丁寧に揃えられたスリッパ。洞川では、巡礼はしばしば浴衣で終わるのです。

道の千三百年、湯の四十年

この風景を見れば、侍の時代から人々がここで湯に浸かってきたのだろうと思うでしょう。ところが、宿に温泉が引かれたのは1983年のことです。村営の共同浴場が開いたのはその10年後、さらに2008年には新しい源泉が湧きました。

洞川が正式に「温泉」になった頃には、すでに数百年も巡礼者を迎え続けてきた宿がありました。温泉の湯は、信仰と法螺貝と痛む足でできた、はるかに古いインフラの上に流れ込んできたのです。

弱アルカリ性の湯は控えめです。強い硫黄の匂いもなければ、劇的な色もありません。肌にやわらかく、歩いたあとにちょうどいい湯。湯治場を発明したのは巡礼で、温泉はそこに湯気を足しただけなのです。

山は今も扉を閉ざしている

村の上にそびえるのは、大峰山の頂であり修験道の歴史的中心、山上ヶ岳です。7世紀、役行者が蔵王権現を感得し、大峰山寺を開いたと伝えられています。山頂への道は今、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部です。しかし、ひとつの境界が残っています。清浄大橋から先、山上ヶ岳への道は、今も女人禁制なのです。

土地の伝説によれば、役行者の母、白専女は息子を追って山に入ろうとしました。行者は厳しい修行の危険から母を守るため、小さなお堂、母公堂を建て、これより先は進まないようにと結界の門を設けたといいます。伝説は禁制の由来を語ります。しかし、それで境界が消えるわけではありません。

日本の霊山の多くがこの慣習を解いたなかで、山上ヶ岳は議論を抱えつつも、今なおそれを守り続けています。すぐ近くの稲村ヶ岳は誰にでも開かれ、「女人大峯」の名で親しまれています。同じ山系のふたつの頂に、ふたつの異なる掟。洞川は、受け継ぐものと、まだ変えようとしないものを抱えたまま、この生きた伝統の麓で暮らしているのです。

行者たちの薬屋

宿のあいだに、不思議な店構えが現れます。黄色い箱、古い引き出し、薬の看板が並ぶショーウィンドウ。売られているのは、洞川名物の胃腸薬「陀羅尼助」です。

伝承によれば、役行者がキハダの樹皮を削って煮出し、疫病を治したのが始まりとされます。この極めて苦い煎じ薬は、やがて山伏たちが携え、売り歩く胃腸薬となりました。その広がりは、大峰参りの広がりそのものでした。

名前は僧侶が唱える長い呪文「陀羅尼」に由来すると言われます。一説には、読経中に眠らないよう、この樹皮のかけらを口に含み、苦味で目を覚ましていたのだとか。エナジードリンクよりずっと前に、山はもっと効くものを見つけていました。まずさです。今の陀羅尼助は、主に小さな黒い丸薬として、弱った胃腸のために売られています。通りの薬屋たちは、宗教と商いと医学がひとつの引き出しに収まっていた時代から、まだ完全には出ていないように見えます。

紅葉の下の龍

村の端にある龍泉寺は、一つの泉を中心に建てられています。役行者が山を下りる途中に見つけたと伝えられる、青く澄んで底の見えない水。行者はそれを「龍の口」と名付け、八大龍王を祀りました。行者たちは今もこの冷たい水で身を清め、山上ヶ岳への道中の無事を祈ってから出発します。温泉が帰り道の筋肉をほぐすなら、こちらは出発前の心を整える水。同じ村で、温度はまるで違います。

夜になると、池は深い緑に変わります。水の真ん中で小さな灯籠の堂が見守り、そのまわりを岩と石像と、下から照らされた紅葉が囲みます。水面の反射はほとんど揺れません。水は光を返すというより、光を抱え込んでいるように見えます。寺の前には、なかなか個性の強い丸い石も鎮座しています。優しく撫でれば軽くなり、叩いたり見下したりすれば重くなるのだとか。龍泉寺では、石ころまでもが人の礼儀に目を光らせているのです。

山はゴロゴロと鳴る

洞川の地面の下では、水がもうひとつの仕事を続けています。かつて海の底で生まれ、山とともに持ち上げられた石灰岩の大地は、空洞と地下の通路だらけです。一滴また一滴、水は鍾乳洞を刻み、石柱を育て、森の下に道を開いてきました。

その水が姿を現す場所のひとつが「ごろごろ水」。1985年に日本名水百選に選ばれた、洞川の三つの名水のひとつです。名前の由来は、岩の中から聞こえる音だと言われます。まるで小石が地下の管を転がっていくような音。山は動かないように見えて、内側でごろごろと鳴っているのです。村の中で、水は役割を変えていきます。飲み物や豆腐や菓子になる名水、龍泉寺の清めの水、風呂の湯。洞川では、水に祈り、水を飲み、水に浸かり、そして時々、地面の下で水が語るのに耳を澄ますのです。

夜は灯りを守る

夕食が終わると、通りは静かになります。川は赤い橋の下を流れ、山は黒い塊になり、提灯がアスファルトに小さな温かい輪を落とします。窓の向こうでは木の床が光り、上がり口にスリッパが一足待ち、壁には昔の巡礼の記念が今も並んでいます。その風景の真ん中に、「DOROGAWA」ステッカーの自動販売機がひとつ。木と龍と行者の村に混ざった、ささやかなプラスチックの現代。近代はやって来ましたが、景色を遮らないよう、道の端に寄って停まっているようです。

朝になれば、白装束の男たちはまた道を登っていくでしょう。法螺貝が家々を起こし、龍泉寺はまだ濡れた体を見送り、山は彼らの背後で木々を閉じます。洞川はといえば、待つことを覚えた村です。登拝の終わりを、講の帰りを、戸閉めを、次の春を。提灯の下で、村は今夜も、まだ下りてこない誰かのために灯りをつけたままにしています。

Instagram

ここにある写真は、すべて自分で撮ったものです。

記事になるのは、撮った写真のごく一部です。残りはほぼ毎日、その場からInstagramに上げています。

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